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三相:② 苦相dukkha-lakkhaṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月12日
  • 読了時間: 2分

三相:② 苦相dukkha-lakkhaṇa  生きているという場合、瞬間瞬間、何が起きていて、何をやっているのか?」と観察すればよいのです。立ったり座ったり、歩いたりすること、ご飯を食べたり、呼吸をしたり、睡眠をとったり、人と話したり、服を着替えたり、身体を動かしたりすることが、生きることです。それをそのまま、客観的に観察します。それから、なぜ呼吸しているのか? なぜご飯を食べたのか? なぜ立ったのか? なぜ座ったのか? なども観察するのです。すると、身体を動かさずにいられない衝動を発見します。それが、「苦」ということです。苦しみがなければ、呼吸もしません。ご飯も食べません。仕事もしません。すべて、苦がやらせているのです。 苦とは得体の知れない、理解しがたいものではありません。この肉体にある感覚なのです。物質に感じる能力があれば、生き物です。その感覚が苦なので、絶えず動くことが生きることになっているのです。単細胞の生命であっても、常に動いているのです。 命とは、生きるとは、苦であるならば、命に価値があると思うこと、ものごとに価値があると思うこと、命に、ものごとに、執着することほど愚かな行為はないと発見することでしょう。 一般的に、現象を観察すると、無常であることを発見します。生きるとは何かと、自分の生き方を観察すると、苦を発見します。無常に目覚めるか、苦に目覚めるかは、それぞれの人の興味次第、能力次第だと言っても過言ではありません。ただ、命に最初から強烈な執着があるので、生きるとは苦であると素直に認める気にはならないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p26】

 
 
 

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