不浄観は欠かせない修行です
- sapporobukkyoujuku
- 6月22日
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不浄観は欠かせない修行です ここでは疑問が生じると思います。どのようにして、自分の腎臓・心臓・肺臓・肝臓・腸・胃物などを観察するのか、という問題です。当然これは無理です。しかし無理だからやらなくてもいい、ということにはなりません。自分の髪の毛、身体の毛、爪、歯などの観察はできます。 もう一つの方法は、遺体を観ることです。遺体は自分でも他人でもない物体です。遺体の不浄物を観察しながら、まず自分の身体も同じようなものでできていると観る。それから、他の人々の身体も同じような不浄のもので構成されていると観るのです。 お釈迦様の時代のインドでは、遺体の観察はいたって簡単でした。亡くなる人々を皆火葬する習慣はなかったのです。火葬したのは、高貴な人々か、豊かな人々だけでした。一般人の遺体は、森のそばにある遺体捨場に置いておくのです。現代は、遺体の観察も難しくなっています。 身体が美しいものだと思って愛着するのは、全ての生命の本能です。解脱を目指して心を清らかにすることに励むならば、この愛着を捨てなくてはいけないのです。身体に対する愛着をなくす手っ取り早い方法は、身体は不浄なものであると、ありのまま観ることです。ですから出家する人々には、最初に不浄の瞑想を授けるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p95】
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