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世間の「正理」はこうして現れる

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月14日
  • 読了時間: 1分

 「Ñāyassa adhigamāya 正理を得(るための)」。日本語訳では正理と書いています。文字通りそれでいいと思います。Nāya は八聖道でもいいですが、「論理」ということでもあるし、「もののあり方」という意味もある。自分に対する、世間に対する方法というか、システムというか、世のなかには、皆が知りたがる論理的なテーマがあるのです。アミノ酸と遺伝の語が科学者の「正理(ñāya)」になっているのです。人は真理を知らなくてはいけないのです。それならば、自分で探してみるより他に方法はないのです。「Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経」の実践方を行なってみると、生命の真理をおのずから発見することができるのです。生命に関する正理(ñāya) を発見する方法が、「大念処経」の実践です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.35】

 
 
 

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