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世間の「正理」はこうして現れる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年4月14日
  • 読了時間: 1分

 「Ñāyassa adhigamāya 正理を得(るための)」。日本語訳では正理と書いています。文字通りそれでいいと思います。Nāya は八聖道でもいいですが、「論理」ということでもあるし、「もののあり方」という意味もある。自分に対する、世間に対する方法というか、システムというか、世のなかには、皆が知りたがる論理的なテーマがあるのです。アミノ酸と遺伝の語が科学者の「正理(ñāya)」になっているのです。人は真理を知らなくてはいけないのです。それならば、自分で探してみるより他に方法はないのです。「Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経」の実践方を行なってみると、生命の真理をおのずから発見することができるのです。生命に関する正理(ñāya) を発見する方法が、「大念処経」の実践です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.35】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
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とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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