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世間は常住、 楽、我だと信じている

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月9日
  • 読了時間: 1分

世間は常住、 楽、我だと信じている

 世間は前提として存在が① 常住(nicca)、② 楽(sukha)、③ 我(attā)だと信じていますが、客観的にデータを調べる修行者は① 無常(anicca)、② 苦(dukkha)、③ 無我(anattā)こそが事実・真理だと発見するのです。

 一言でいえば、修行者は現象のありのままの姿を発見するのです。それなら一つの言葉で表しても構いません。しかし世間は、現象に対して三つの側面から勘違いしています。その勘違いに合わせて、さまざまな煩悩も生まれます。修行者は、その三つの側面が、正しくないと発見するのです。しかし修行者が、無常・苦・無我という三つの側面すべてを観察する必要はないと思います。いずれか一つを明確に発見すれば、それで充分です。解脱に達する段階になると、かならずそうなります。今は、五番目の道非道智見清浄の智慧に達しようとするところです。ですから、一切の現象は無常であり苦であり無我であると、すべての側面で観察した方がよいのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p117】

 
 
 

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