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今まであった先入観は自動的になくなる

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月16日
  • 読了時間: 1分

今まであった先入観は自動的になくなる Nāma とrūpa を発見すれば、「自分がいる」という今まであった先入観・見が、自動的になくなります。当然これは、見の清浄です。修行者のものの見方は、自分の発見によって変わるのです。「私はいるのではない(実体として存在するものではない)。Nāma とrūpa の流れなのです。その流れに世間の言葉として『私』と言うだけです。私がいなければ、他人もいるはずはない。他人というのは、同じnāma とrūpa の流れです」 このように、ものごとがnāma とrūpa の流れとして見えるようになったならば、見清浄に達した、ということです。 また、いろいろ性格的な変化も現れます。自我・自分という気持ちがnāma とrūpa のはたらきに変わったので、感情の揺らぎはほぼなくなったようになります。道徳は自然に守れます。破りたい気持ちはなくなったような気がします。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p95】

 
 
 

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