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仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない

  • sapporobukkyoujuku
  • 11月13日
  • 読了時間: 1分

仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない

 次の問題は、戒律項目は誰が設定するのか、ということです。誰にその権利があるのでしょうか。解脱を目指す仏教の場合は、これは問題になりません。感情を砕くために戒律項目を設定するので、感情を砕き終わった人には、同じ目的を目指す人々に戒律項目を定める権利があります。仏教の場合は、お釈迦様の独占権になります。たとえ阿羅漢になった聖者であろうとも、初めはお釈迦様の弟子なのです。智慧を完成し、煩悩を根絶したお釈迦様が定めた戒律項目は、文句を言わず守らなくてはいけません。

 大きな戒律項目ではなく細かい戒律項目の場合、例えば「走ってはならない」などは、心に影響を与えない可能性があります。それで調子に乗って細かい戒律を無視すると、師匠である釈尊を無視した、冒瀆したことになるのです。これが解脱の大きな障害になります。というわけで仏教では、釈尊が定められた戒律は守らなくてはいけない、ということになっています。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p63】

 
 
 

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