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仏教の伝統的なやり方

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月18日
  • 読了時間: 1分

仏教の伝統的なやり方 サマタ瞑想を先に実践して集中力を育ててから、智慧を開発するヴィパッサナーへ進みたいと思う人々もいます。これは仏教の伝統的なやり方でもあります。しかしサマタ瞑想には、結構時間を費やすものです。どれぐらい時間がかかるのかは、分かりません。出家した人々は、毎日、修行の他にやることがないので瞑想三昧で、さまざまな瞑想方法を試してみることもできます。しかし、たとえ出家したとしても、先が長くない人々もいます。歳は若くても、人はいつ死ぬか分からないものだと危機を感じる人々もいます。それらの人々には、気長に瞑想実践する余裕はありません。「私の命は無常です。今にも死が訪れるかもしれません」と理性的な切迫感を大いに感じるべきだと、お釈迦様も推薦しています。命は儚いものであると、理性に基づいて感じる人々は、サマタ瞑想に時間を費やさないで観察瞑想をした方が正しいです。お釈迦様が説かれるとおりに観察の実践をおこなうならば、解脱は遠い話ではありません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p31】

 
 
 

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