top of page
検索

仏教の伝統的なやり方

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月18日
  • 読了時間: 1分

仏教の伝統的なやり方 サマタ瞑想を先に実践して集中力を育ててから、智慧を開発するヴィパッサナーへ進みたいと思う人々もいます。これは仏教の伝統的なやり方でもあります。しかしサマタ瞑想には、結構時間を費やすものです。どれぐらい時間がかかるのかは、分かりません。出家した人々は、毎日、修行の他にやることがないので瞑想三昧で、さまざまな瞑想方法を試してみることもできます。しかし、たとえ出家したとしても、先が長くない人々もいます。歳は若くても、人はいつ死ぬか分からないものだと危機を感じる人々もいます。それらの人々には、気長に瞑想実践する余裕はありません。「私の命は無常です。今にも死が訪れるかもしれません」と理性的な切迫感を大いに感じるべきだと、お釈迦様も推薦しています。命は儚いものであると、理性に基づいて感じる人々は、サマタ瞑想に時間を費やさないで観察瞑想をした方が正しいです。お釈迦様が説かれるとおりに観察の実践をおこなうならば、解脱は遠い話ではありません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p31】

 
 
 

最新記事

すべて表示
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 
観察の汚れ:① 光obhāsa

観察の汚れ:① 光obhāsa  Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るの

 
 
 

コメント


bottom of page