top of page
検索

依存している

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月8日
  • 読了時間: 2分

依存している Sāmisa というのは、原因があって生まれてくる感覚なのです。いわゆる対象があるのです。目を開けて何かを見る。すると「楽しい」と感じる。なぜ楽しみが生まれたのでしょうか。「目で何かを見た」からなのです。だから、いまの自分の楽しみは、自分の目と見えた対象に依存しているのです。自分の目と、見えた対象がなければ、その楽しみは生まれないはずなのです。そこで耳に何かの音が入ってくる。「ああきれいな音楽だ。気持ちいいなぁ」と、そこで楽の感覚が生まれるのです。 なぜ気持ちいい、楽の感覚が生まれたかというと、耳があって、そこに音という対象が流れ込んだからなのです。だから自分の楽しみはこの二つの原因に依存しているのです。 耳に入ってきた音楽を聞いたときの喜びを、その音楽なしに体験することができるでしょうか? 同じ楽しい気持ちをもう一回作ろうかな、と思っても作れません。それだったら、またCDでも聞かなければいけないし、あるいは自分で歌ってでも、その音を作らなければならないのです。そうやって、ものに依存して楽しみが生まれるのです。 分かりやすくまとめれば、眼・耳・鼻・舌・身という情報を受け取る感覚器官(五根)と、それに色・声・香・味・触という五つの対象があります。それらの対象を原因として楽しみが生まれる、また苦しみが生まれる、また非苦非楽が生まれるのです。 ですから自分が感じている楽、苦、非苦非楽というものの半分は、いや実際ほとんどは、眼耳鼻舌身から入る情報によって生まれているのです。そういう全ての感覚をsāmisa と言うのです。dependent(依存)しているという意味です。そういうことで、俗世間では(「欲界では」と言ってもいいのですが)、sāmisa・依存している、苦と楽と非苦非楽しかないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p138】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 

コメント


bottom of page