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俗世間の生き方

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月23日
  • 読了時間: 1分

 お釈迦様が仰った通りに、身体の動きを客観的に、正知をそなえて観察すると、心には憂い悲しみなどが起こるはずもないのです。このフレーズに loke という言葉があります。「俗世間に対する」という意味です。俗世間の生き方では、必ず欲、怒り、憂い、悲しみなどが起こるのです。お釈迦様が推薦する観察方法を実践しはじめたその瞬間から、心が憂い 悲しみなどから解放されるのです。人がたった一分間でも観察を実践すると、その一分間で心がやすらぎを味わうのです。Vineyya loke abhijjhādomanassam というフレーズで、気づきの実践から得る結果を示しているのです。しかしこれが解脱だと、勘違いしないでください。まだ修行を始めたばかりです。まだ気づきの三種類が残っています。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.47】

 
 
 

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