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外から、内から観る

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月25日
  • 読了時間: 1分

外から、内から観る自分の身体の威儀を観察することです。それが「外の身体を観る」です。次に、身体のなかから観察してみれば良いと思います。歩いたり坐ったりすると、外から見える変化だけではなく、身体のなかにも様々な変化が起こるのです。坐ったり歩いたりという威儀を行なっている人が、最初は形的な変化に気づきますが、それをできるようになったところで、身体のなかの変化を観察すれば良い。坐るときは身体のなかにどのような変化が起こるのか、歩いているときは、身体のなかの変化はどのようなものか、と観れば良い。それが「内の身体を観る」になります。それから、内と外という両方とも併せて観察すれば良いのです。これが決定的な解釈ではありません。単純に、自分の身体を観る、他人の身体を観る、という意味で理解しても構わないのです。しかし皆に実践できる、という立場から見ると、自分自身の身体を外から観る、内から観る、という方法を取ったほうがベターではないかと思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p76】

 
 
 

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