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六番目の行道智見清浄というステージ

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月17日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄というステージ

 五番目の道非道智見清浄のステージは、どんな修行者にとっても混乱の多い長い戦いになります。心は成長して智慧もある程度まで成長していますが、精神的に整理されてないような状態です。喩えで言えば、人が花屋さんでたくさんの花を買ったとしましょう。それを家に配達してもらって、ひとまずリビングに置きました。その瞬間、家の美的調和が壊れます。落ち着きがなくなります。置いたのは花ですが、たくさんゴミが溜まっているような気分です。問題は何なのでしょうか。花は自分が喜んで丹念に選んで買ったものです。ゴミではありません。しかしこれから、自分の能力をふるって花を活けなくてはいけないのです。それでしっかり落ち着いて、花を活けることにするのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p137】

 
 
 

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