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悲観主義者ではなく現実主義者

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月5日
  • 読了時間: 1分

悲観主義者ではなく現実主義者

 海の喩えに戻れば、なんとか理解できると思います。ぼろぼろになった浮き輪に頼って大海のまん中をさまよっている人が、自分の置かれた状況を観察すると、常識を超えた恐怖を感じるでしょう。だからといって、やることはないのです。ただ、自分の状況を観察します。浮き輪に目をやる。見るからにぼろぼろです。波に当たるたびに、古くなったゴムが壊れていきます。決して強くなったり、新しくなったりはしません。自分の身体を見る。潮の中にいるので、身体が壊れていきます。決して、健康な身体になるわけではないのです。高い波が来る。それに当たったらどうなるのか分かる。サメなどの魚を見る。サメが自分を見つけたら、何をするのか分かる。決して、背中に乗せてどこかの島へ運んでくれるはずはありません。このように、周りにあるものはすべて、自分の死を早めるものばかりであると観ることは悲観主義でしょうか? 悲観主義者ではなく現実主義者です。もしその人が楽観主義者になって、「言葉を喋れるウミガメが来て、きっと自分を陸地まで運んでくれるに違いない」と思っても事実は変わらないでしょう。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p145】

 
 
 

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