六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa
- sapporobukkyoujuku
- 4 日前
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六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa
修行者は、滅するばかりの一切の現象に対して怖畏を感じました。執着することは想像もつかない愚かなことであると、この時点で当然、知っています。しかし知ったからといって、煩悩という感情は消えません。もしかすると観察能力がまだまだ足らないかもしれません。智慧がまだまだ足らないかもしれません。修行者はさらに集中力を上げて、nāma-rūpa を観察します。具体的に一つ一つの現象の何が悪いのか、何が危険なのかを観るようにします。
このように説明すると、修行者はあえて悲観主義者になろうとするのではないかと誤解するかもしれません。それは言葉では説明できない心の状況を、ここであえて言葉で説明しているからです。修行者はわざと悲観主義の色眼鏡をかけたりはしません。修行を始めたときから、主観でものごとを観る癖を直してきたのです。客観的にありのままにものごとを観察する能力を育ててきたのです。今さら、何かの偏見に乗る必要はありません。修行者はただ、高度に育てた集中力で現象を観察しているだけです。Nāma であれrūpa であれ、一切のものごとは瞬間的に生まれては消える。消えるという特徴が心に引っかかる。それによって怖畏を感じている。さらに観察すると、「なぜ怖いのか」ということも観えてきます。
【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p144】
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