top of page
検索

六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月4日
  • 読了時間: 2分

六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa

 修行者は、滅するばかりの一切の現象に対して怖畏を感じました。執着することは想像もつかない愚かなことであると、この時点で当然、知っています。しかし知ったからといって、煩悩という感情は消えません。もしかすると観察能力がまだまだ足らないかもしれません。智慧がまだまだ足らないかもしれません。修行者はさらに集中力を上げて、nāma-rūpa を観察します。具体的に一つ一つの現象の何が悪いのか、何が危険なのかを観るようにします。

 このように説明すると、修行者はあえて悲観主義者になろうとするのではないかと誤解するかもしれません。それは言葉では説明できない心の状況を、ここであえて言葉で説明しているからです。修行者はわざと悲観主義の色眼鏡をかけたりはしません。修行を始めたときから、主観でものごとを観る癖を直してきたのです。客観的にありのままにものごとを観察する能力を育ててきたのです。今さら、何かの偏見に乗る必要はありません。修行者はただ、高度に育てた集中力で現象を観察しているだけです。Nāma であれrūpa であれ、一切のものごとは瞬間的に生まれては消える。消えるという特徴が心に引っかかる。それによって怖畏を感じている。さらに観察すると、「なぜ怖いのか」ということも観えてきます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p144】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page