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六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月27日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa

 修行者は五番目の道非道智見清浄のステージでたくさんの観察方法を試したはずです。Nāma とrūpa に分けて観察したり、五蘊として観察したり、眼耳鼻舌身意(六根)と色声香味触法(六処)とそれから生じる眼識耳識鼻識舌識身識意識(六識)などに分けて観察してみたりしました。さらにすべての現象を無常・苦・無我の三相に合わせて観察してみました。

 観察能力が向上して、現象の変化の流れに合わせてみようとしたところで、心が生滅の流れに引っかかってしまったのです。生滅を観られるようになると、さらに詳細に観察したくなります。生滅ばかりを観察していても、自分が精進している気持ちが弱くなってしまいます。今のステージの修行者は、決して精進する意欲を弱めません。さらに詳細に観察しようとすると、生と滅という二つの特色の中で、滅するという特色が際立ってきます。生じるという特色よりも、滅する・消える・無くなるという特色の方が認識しやすく、分かりやすくなります。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p141】

 
 
 

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