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六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月30日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa

 まず世間話から始めましょう。世間話なら理解しやすいです。何か壊れた、なくなったと言われたら、どんな気持ちになるでしょうか。あなたの家に泥棒が入って高価なものをすべて持っていかれた、通帳もハンコもカードも持っていかれたと言われたら、またそれが事実であるならば、どんな気持ちになるでしょうか。その気持ちは、明確に言葉で表現できないかもしれませんが、分かりやすく言えば「怯え」を感じます。

 なくなることを妄想すると、不安になります。仕事がなくなったら、貯金がなくなったら、親が亡くなったら、家に泥棒が入ったら、などなどを妄想すると、不安でたまらなくなります。これは心の法則です。なくなる、ということが事実であると分かったら怯えを感じたり、なくなるだろうと分かったら不安を感じたりするのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p142】

 
 
 

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