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六番目の行道智見清浄:① 生滅智udayabbaya ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月21日
  • 読了時間: 1分

六番目の行道智見清浄:① 生滅智udayabbaya ñāṇa

 五番目の道非道智見清浄のステージでは、心の中を台風が横切っているような状態です。六番目の行道智見清浄のステージに入るときの気持ちは、台風一過の青空のようです。神秘的な体験を感じたりさまざまな心の変化を感じたりしていた修行者は、それらが何もなくなったとき、修行のレベルが落ちてしまったような錯覚にも陥りやすいものです。台風が通過しているときは、変化が分かりやすいです。そして台風が通過して晴天になったとき、環境が元に戻ったわけではありません。前よりはきれいになっているはずです。修行者は、実践が元に戻ったという気持ちを抱いてはなりません。さらに集中力を上げながら、観察作業を続けるべきです。それはそれほど難しくありません。解脱に達するべきであると、心が決定しているのです。ですから、観察を止めたくても止めることはできなくなっています。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p138】

 
 
 

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