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出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない

  • sapporobukkyoujuku
  • 11月24日
  • 読了時間: 2分

出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない 律蔵には、生き方にかかわるたくさんの戒律項目があります。お布施を目的に説法すること、布施をいただくために祈祷をすること、自分がまじめに修行しているのだと言いふらして信者の気持ちを引くこと、在家の間の使い走りをしてあげることなどは禁止です。要するに「楽に生きられるように、私に布施が入ればいいなあ」と思うこと自体が禁止なのです。 とはいっても、出家比丘たちは苦しい生活をしているわけではありません。在家仏教徒たちも、理性のある立派な方々です。仏教は基本的に品格のある生活を要求します。ですから在家の方々は、出家者に苦労をさせません。気持ちよく、また気楽に修行できるように協力し、出家者にみじめな生活をさせません。仏教を教える伝道活動を気楽にできるように、惜しみなく協力してあげるのです。ですから出家は、この落とし穴に陥りやすいのです。常に無執着の心で布施をいただくよう、努めなくてはいけません。慈しみの気持ちは欠かせません。「裕福な信者さんたちがいる。お陰で裕福な出家生活ができる」という気持ちになったら、ājīva-pārisuddhi-sīla を破ったことになります。常に無執着の精神を保たなくてはいけないのです。つまり、布施に頼って生活するにせよ、在家が仕事をして生計を立てるにせよ、どちらも楽ではない、ということです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p69】

 
 
 

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