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助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月3日
  • 読了時間: 2分

助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する

 もう一つ、喩えを出します。人が大海のまん中で遭難したとしましょう。ぼろぼろになった浮き輪くらいはあります。それもそれほど長持ちしないと分かっています。浮き輪のゴムが波に当たって壊れていくのです。こんなとき、かならず助かると思って、いい気になっていられるでしょうか。東西南北どこに流されても、限りのない海です。遠くに船が通るのが見えても、水面から頭しか出していない自分は絶対、気づかれません。そのまま無事にいることができたとしても、浮き輪が壊れていきます。水の中にいますから、結局は身体も壊れていきます。下から大きな魚に襲われて自分が食われてしまう可能性もあります。助かる見込みは、一兆分の一もありません。ほぼ皆無です。この場合は「怖くてたまらない」という言葉さえも当てはまりません。常識的な怖さを超えています。

現象はすべて滅するのだと発見した修行者が、この喩えと似たような、常識を超えた、しかし理性に基づいた怖さを感じるようになります。

 この状況は、前よりも強いインパクトを心に与えます。現象に対して執着するとは、確実に怖いものをあえて抱きしめるようなものであると感じるのです。海の喩えで言えば、助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着するようなものです。怖さを発見すると、執着することの愚かさをさらに強烈に感じるのです。一切の現象に対して怖畏を感じるこのレベルを、怖畏智と言います。 

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p143】

 
 
 

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