top of page
検索

⑵動物に食べられた死体

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月14日
  • 読了時間: 2分

⑵動物に食べられた死体 死んで日が経つにつれて変わっていく死体の状況に合わせて、瞑想が九つあるのです。次には、例えばこういうふうな身体が見つかるかもしれません。 Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ kākehi vā khajjamānaṃ kulalehi vā khajjamānaṃ gijjhehi vā khajjamānaṃ kaṅkehi vā khajjamānaṃ sunakhehi vā khajjamānaṃ byagghehi vā khajjamānaṃ dīpīhi vā khajjamānaṃ siṅgālehi vā khajjamānaṃ vividhehi vā pāṇakajātehi khajjamānaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati—‘ayampi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ti. Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati; samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati. ‘Atthi kāyo’ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evampi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、(2)たとえば墓地に捨てられた、烏に食べられたり、鷹に食べられたり、禿鷹に食べられたり、蒼鷲に食べられたり、犬に食べられたり、虎に食べられたり、豹に食べられたり、ジャッカルに食べられたり、あるいは種々の小さな生き物に食べられたりしている身体を見るように、この身のみに集中します。〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉と。以上のように、内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。また、身において生起の法を観つづけて住みます。あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住みます。あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それは他でもない、智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p113】

 
 
 

最新記事

すべて表示
真理は一つですか?

真理は一つですか? 世の中で「真理は一つだ。二つは成り立たないのだ」という考えがあります。これは、ただ言葉として言っているだけのもので、真理を発見し、まじめに責任を持って発表している言葉ではありません。「それでも真理は一つでしょう」という考えは皆、持っています。ヒンドゥ教の...

 
 
 
ヴィパッサナー瞑想の対象

サマタ瞑想とは、精神的に向上することです。ヴィパッサナー瞑想は、清浄visuddhi に達することです。精神的に向上した人の心もある程度は清らかですが、汚れる恐れがあります。清浄に達する人々の心は、当然、精神的にも向上しています。清浄の七段階を紹介してから、アビダンマ・テキ...

 
 
 
観業処:⑦ 智見清浄

観業処:⑦ 智見清浄  学校の喩えでいえば、研究が何の問題もなく進んで、論文を提出して、卒業する段階です。 ヴィパッサナーの場合は、一方通行の高速道路に入ったので、当然、悟り・解脱を経験することになります。この段階が智見清浄です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心...

 
 
 

コメント


bottom of page