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受動的観察と能動的観察

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月16日
  • 読了時間: 1分

受動的観察と能動的観察 Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati;以上のように、内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。 Ajjhatta は「内」、bahiddhā は「外」という意味です。呼吸の観察とは、自分(内)の呼吸を観察することです。それから集中力を育ててみると、「身体とは呼吸なのだ」というところまで理解できるようになります。「自分の身体とは呼吸機能そのものであります。身体は自分特有のものではありません。犬・猫・魚など様々な生き物を観察すると、皆、絶えず呼吸していることが見えます。この観察は能動的なものになります。これは「外」という意味です。受動的な観察と能動的な観察を相互に繰り返して行なうことで、呼吸という機能を普遍的な現象として理解することができるようになります。経典の言葉でいうならば、「内と外の身において身を観つづけて住みます」です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.67】

 
 
 

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