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善友に会えば仏道は完成

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月29日
  • 読了時間: 1分

善友に会えば仏道は完成 人間は主観で生きるようにプログラムされています。自分の判断はいつでも正しいと思っています。あるとき結果が出たら、判断が間違っていたことに気づきます。しかし、後の祭りです。自分の判断が正しいか否かは、自分では分からないものです。誰も間違った判断をしようとは思いません。しかし、心が主観である限り、この問題は解決しません。 人の判断が善いか悪いかは、第三者に見える可能性があります。 他人の意見に耳を傾ける場合、その他人が客観性を完成した人であるならば、完全に信頼できます。世の中の人々にとっては、客観性を保つのは大変です。完成した客観性に初めて達したのは、お釈迦様です。お釈迦様の言葉は、完全に信頼できます。その言葉どおりにおこなえば、絶対に失敗しない人生を送れます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p38】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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