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四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月31日
  • 読了時間: 1分

四つの観察③:paccupaṭṭhāna 現状 Paccupaṭṭhāna も喩えで説明すると分かりやすいです。ボールペンとは文字などを書くために使う道具です。ボールペンの形に作ったオモチャは、オモチャであってボールペンではありません。私たちはいとも簡単にボールペンを認識します。しかし一度たりとも、文字などを書ける道具だからこれはボールペンです、と決めたことはありません。ややこしいことを考えなくても、見ればすぐ分かるものです。このように、現象が私たちの認識に反映する姿のことをpaccupaṭṭhāna と言います。普通は誰でも、現象が持っているはたらきに気づかず、paccupaṭṭhāna で判断してしまいます。人を見れば、瞬時に男か女か分かります。実際に男としての、女としてのはたらきをしているか否かは関係ないのです。 言い換えてみると、「世に見せる姿」です。どんな現象も、何かの姿を見せています。Dhamma が心に見せる姿も観察しなくてはいけません。修行者は八十一のdhamma が持っているpaccupaṭṭhāna を発見するのです。各dhamma が自分をどのように見せているのか、ということです。見せているとは、結局は、我々がどのように認識するのか、ということです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p88】

 
 
 

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