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在家が高い徳を積む

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年11月23日
  • 読了時間: 1分

在家が高い徳を積む もし在家信者が、自分たちが徳を積むために、また出家の修行に協力してあげるために、料理を作ってお布施するならば、それは慈しみに基づいていただきます。在家が衣の面倒を見てくれるならば、慈しみに基づいていただきます。住むところを造ってくれるならば、あるいは病気になったときに薬をくれるならば、いただいても構わないのです。それによって在家が高い徳を積むのです。ですから布施をいただくことは、出家の無執着の慈しみのおこないでなければいけません。慈しみの気持ちがなく、「よかった。いいものをもらいました」という気持ちになったならば、心が汚れたということです。煩悩が牙を剥いたのです。それで生計を立てたならば、汚れた生き方になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p69】

 
 
 

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