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多次元にしてみれば、A の次はB

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月18日
  • 読了時間: 1分

多次元にしてみれば、A の次はB

 痛みが起きたら、次に「嫌」という気持ちが生じる。痛みが起きたら、心はupekkhā になることもある。痛みが起きたら、生命は痛みによって成り立っているのだと分かっているならば、遠離が起こることもある。解脱に達してしまうこともあり得る。この状況を考えると、A が起きたらB が起こるのではなく、A が起きたらB もC もD もE も起こるでしょう、何の公式もないでしょうと、勘違いするかもしれません。しかし違います。A が起きたら、B が起こるのです。ただ因縁関係は多次元的、というだけの話です。線形的にのみ観るならば、A の次にB もC もD もE も何でもあり得る。しかし多次元にしてみれば、A の次にB です。

 この公式を正しいと確かめる方法もあります。それは、「Imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati. これがないときは、あれもない。これが滅するときは、あれも滅する」という逆調べです。具体的に言いましょう。痛みが生じたら、「嫌」という気持ちが起きました。その痛みが消えてしまったら、「嫌」な気持ちも一緒に消えてしまいます。それで嫌な気持ちをつくった犯人を発見できます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p109】

 
 
 

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