top of page
検索

客観性を育てるために修行が必要

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月27日
  • 読了時間: 1分

客観性を育てるために修行が必要 多数の意見をまとめて一つの意見にしても、それも客観的な意見だとは言い切れません。多数の意見はもともと、主観に汚染されていたので、まとめられた意見も主観に汚染されているからです。 このような状況に我々は生きているので、常に心の中で「疑」に悩まされています。曖昧、優柔不断、中途半端、半信半疑などの状況では、人は悩むばかりです。この問題を解決する唯一の手段は、主観でものごとを見ることをやめて、客観的になることです。 しかし、生命はもともと、ものごとを主観で見られるようにできています。自分の都合でものごとを判断するようにと、生命はプログラムされているのです。ですから、客観性を育てるために修行が必要です。 俗世間の教育で学ぶ客観性は、精密ではありません。曖昧です。しかし、お釈迦様が推薦するヴィパッサナー実践は、客観性を精密に完全に育てる方法です。その方法によって客観性が身についたら、それは抜群の智慧になります。ありのままの真理を発見できるようになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p36】

 
 
 

最新記事

すべて表示
vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤

vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤ ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集めます。そして ①思惟智が現れます。命とは生滅している流れである、と発見します。次に ②生滅智が現れます。現象は派手に壊れるものである、と発見します。次に ③壊滅智が現れます。今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じるのです。そして ④怖畏

 
 
 
命は儚い

命は儚い 命には無上の価値があるとしっかり信じてはいるものの、同時に「死ぬのは怖い」とも思っているのです。命に無上の価値があるといって強烈に執着していますが、現実は違います。命は儚いものです。あっけなく死にます。苦労して、やっと命を繋いでいるだけです。それを頭では理解することができます。しかし、気持ちは変わりません。 命には無上の価値があるという錯覚と、命はあっけなく壊れる儚いものであるという現実

 
 
 
観智:⑤ 過患智は無価値の発見

観智:⑤ 過患智は無価値の発見 次の智慧は、過患智ādīnava-ñāṇa です。Ādīnava というのは、disadvantage ということで、「悪いところだけを見る」ということです。ものには長所と短所の両方がありますが、短所だけ見えてしまうということです。「ものごとに長所も短所もあるのだから、あえて短所だけ取り出すことは、悲観主義者のやり方ではないでしょうか? 偏見ではないでしょうか?」そ

 
 
 

コメント


bottom of page