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客観性を育てるために修行が必要

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月27日
  • 読了時間: 1分

客観性を育てるために修行が必要 多数の意見をまとめて一つの意見にしても、それも客観的な意見だとは言い切れません。多数の意見はもともと、主観に汚染されていたので、まとめられた意見も主観に汚染されているからです。 このような状況に我々は生きているので、常に心の中で「疑」に悩まされています。曖昧、優柔不断、中途半端、半信半疑などの状況では、人は悩むばかりです。この問題を解決する唯一の手段は、主観でものごとを見ることをやめて、客観的になることです。 しかし、生命はもともと、ものごとを主観で見られるようにできています。自分の都合でものごとを判断するようにと、生命はプログラムされているのです。ですから、客観性を育てるために修行が必要です。 俗世間の教育で学ぶ客観性は、精密ではありません。曖昧です。しかし、お釈迦様が推薦するヴィパッサナー実践は、客観性を精密に完全に育てる方法です。その方法によって客観性が身についたら、それは抜群の智慧になります。ありのままの真理を発見できるようになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p36】

 
 
 

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「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
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とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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