寺に墓はないが墓番とは仲が良い
- sapporobukkyoujuku
- 6月26日
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寺に墓はないが墓番とは仲が良い 当時、インドではいとも簡単に遺体が見られました。人が死んだら、遺体を森に持って行って捨ててしまうという習慣もありました。仏教のお坊さんは、人の住まない森のなかでも生活していたので、墓場(遺体捨場)に行って解剖して観てみることもできたのです。 註釈書によると、お坊さん達とお墓の責任者達は結構仲が良くて、他の宗教と違ってよく行き来していました。バラモンの人々は、不浄な墓場に行ってはいけないと、ものすごい差別感を持っていたのです。仏教だけは全然そんなことはない。主観的に遺体は不浄だと思わない。むしろ瞑想対象なのです。だれでも不浄、不浄と言うけれど、その不浄の感覚が違うのです。お坊さん達は瞑想する場所としても墓場を選ぶこともある。人は来ないし、来たとしても遺体を処分してさっさと帰りますから。 インド人は迷信のかたまりだから、墓場に行くことさえも怖いのです。ヒンドゥー教だったらすごく怖がって、遺体をなんとか処分して早く帰る。それから遺体を処理する人々にお金か何か払って処理してもらう。いまもそういう仕事はあります。親戚も遺体には触ろうともしないのです。ジャイナ教でも苦行は教えているけれど、遺体を観て瞑想することはしていなかった。それは仏教だけの特色なのです。 他の瞑想はだいたい皆同じことをやります。例えば、呼吸瞑想ならヒンドゥー教の人々もやっていました。しかし、この遺体を観る瞑想は仏教文化にだけある瞑想で、インドでは他のどこにもない。 お坊さん達は、お墓にはよく行くのです。お墓というのは、お坊さん達のお寺の一部みたいなものだったのです。だからと言って、お寺ではお墓はつくりません。西欧では、お墓と教会が一緒になっています。それは宗教が死んだ人の魂を運ぶ宅配便屋さんだと思っているからです。(いまの日本仏教は別として、)本来の仏教はそういうことはしませんでした。お寺にお墓はないのです。でも誰よりも、お墓の見張り番とは仲が良かったのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p97】
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