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少々観察の仕方を変えて、次のステージ・道非道智見清浄に進む

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月24日
  • 読了時間: 1分

少々観察の仕方を変えて、次のステージ・道非道智見清浄に進む

 ヴィパッサナー実践が着々と成長して、四番目の度疑清浄の智慧に達したとしましょう。その時点で、すべての現象は因縁により生じる一時的なものであると発見しています。お釈迦様が教えた無常・苦・無我についても、気づいているはずです。修行する人は、その都度その都度、現れる現象を確認します。度疑清浄の智慧に達した人は、現象だけではなく、現象の因縁関係も分かっています。いくら観察作業を続けても、これがあったからこれが起きた、という因縁の公式に当てはめてしまいます。無理をしているのではありません。自然に因縁関係が観えてくるのです。そのまま因縁関係も含めて観察しても、それ以上の成長が観えなくなる可能性があります。「これ以上どうするのか? いくら観察してもすべて因縁関係で終わっているのではないのか?」という気分になることもあり得るのです。実際、これ以上どうするのか、という気分に陥る修行者たちがたくさんいます。そこで少々、観察の仕方を変えて、次のステージ・五番目の道非道智見清浄に進むようにするのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p112】

 
 
 

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