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感覚が生じると次に渇愛

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月19日
  • 読了時間: 1分

感覚が生じると次に渇愛

 ここでは分かりやすくするために、痛みという例を出しただけです。修行が進んでいる人は、この時点で「感覚」とラベリングしています。「感覚」という現象が起きたら、次に、欲も怒りも期待も希望も起こり得る。Upekkhā も起こり得る。遠離も起こり得る。感覚と一緒にどのような因縁が流れているのか、ということです。ここで完全に語るお釈迦様が、「vedanā paccayā taṇhā 感覚が起きたら渇愛が生じる」と説かれるのです。渇愛は三種類に分類されているので、ラベルは一項目だけですが、中身は可能性として三つ入っています。因縁法則を線形的に説かれているのです。ですから感覚が生じると、次に渇愛です。決まっています。しかし多次元性を発見しない限り、因縁法則を理解したことになりません。

 では、感覚の次に遠離が現れたとしましょう。感覚の次は渇愛なので、遠離も渇愛の一つでしょうか、という問題が起きます。渇愛が生じるために無明が必要です。修行して智慧が現れた人に限り、遠離が生じます。ですから問題はありません。「これがあるとき、あれがある」という公式を訂正する必要はありません。無明がなくなるときの因縁の流れは、別に説かれています。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p109】

 
 
 

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