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感覚に対して結果が生まれる因縁関係は多次元

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月15日
  • 読了時間: 2分

感覚に対して結果が生まれる因縁関係は多次元

 修行中、痛みを感じます。そこで「痛み」と確認します。集中力が上がったら、痛みを確認して、それから心の変化も確認します。痛みが生じると同時に、心に「嫌」という気持ちも生まれる。ここまで進んだ修行者は、「嫌な気持ち」とは確認しません。現象に対する心の反発なので、「怒り」と確認するのです。では、痛みを感じるたびに怒りが生じるのでしょうか? 決してそうではありません。しかし、A があるとき、B が起こるでしょう。多次元因縁法則で調べてみましょう。最初の頃に生まれた痛みの感覚に対して、嫌という結果が生まれました。それに別な因縁の流れがいくつか入っているのです。自分はこうなってほしい、こうなってほしくない、という希望の流れ。瞑想すると喜悦感を感じるだろう、という先入観の流れ。現象に対してどのようにアプローチするのか、というその個人が長いあいだ経験してきた習慣の流れ。自我愛はどの程度か、という自分なる存在に対する評価の流れ。今回、瞑想に入るとき、心にあった気持ち的な流れ(例えば、瞑想する気分ではなかったのに、やらなければいけなかった、などです)……などなどが、痛みと怒りのあいだに割り込んでいるのです。ですから、因縁関係は実に多次元なのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p108】

 
 
 

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