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我が存在する(我論attā)という世間の勘違い

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月8日
  • 読了時間: 1分

我が存在する(我論attā)という世間の勘違い

 人々は、永遠不滅の魂がある、自分という実体があると、固く信じています。「何もない」と言われたら怯えます。永遠に変わらない自分という実体が潜んでいると思っているので、無常なる存在に対して徹底的に執着します。魂があると結論づけるために必要な、証拠もデータも皆無です。しかし前提として信じています。仏道の修行者は客観的な観察によって、「一個一個の現象が泡のようなもので、それが弾けて次の現象が現れているのだ」と発見します。我が存在する(我論attā)、という世間の勘違いに対して、修行者は、事実は無我(anattā)であると発見するのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p117】

 
 
 

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