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戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない

  • sapporobukkyoujuku
  • 11月30日
  • 読了時間: 1分

戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない 解脱を目指してヴィパッサナー実践をおこなう修行者は、戒清浄の次に心清浄に達しなくてはいけません。修行者に、近行定か安止定が必要です。サマーディに似ている状態か、サマーディに達した状態を、なぜ「心を清らかにした状態」としているのか、その理解が必要です。 戒律・道徳を守ることで、心の煩悩がしょっちゅう牙を剥いて心を乱すことをやめることができます。これに成功すると、煩悩に悩まされることなく、安らかに生活することができるのです。しかし、心の煩悩は活性化したままです。ただ戒律に邪魔されて、表に出ないだけです。心の中では煩悩がかき回されています。それで修行者はサマタ瞑想をします。瞑想が成功して、禅定に達します。禅定に達するとは、活性化している煩悩を睡眠状態にすることなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p73】

 
 
 

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