top of page
検索

指導者の説明をあおぐ

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月7日
  • 読了時間: 1分

指導者の説明をあおぐ まずは自分で観察して、自分で確認して、現象のありさまを発見する。瞑想実践をしないときに、自分自身の経験を経典に照らしてみるか、指導者に説明してみるか、どちらかをするのです。これは単純に落ち着いてもらうためだけです。さまざまな経験はあるけれどもそれが何か分からない、という気持ちでいる場合は、精神的に落ち着きません。そこで指導者が「あなたはこれこれのことを発見しています」と言えば、落ち着くことができます。詳しい説明を聴いてもらわなくても、落ち着いて修行を続けるならば、解脱に達することは可能です。ですが、心は常に認識データを捏造します。成長してないのに「成長したのだ」、悟りに達してないのに「悟っているのだ」と捏造してしまうことも大いにあり得るので、指導者の説明をあおぐのが普通なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p91】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page