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智慧が現れる過程を七つに分ける

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月23日
  • 読了時間: 2分

智慧が現れる過程を七つに分ける

当然、ヴィパッサナー実践も日常でおこなうものではないので、修行中、変わった経験が起こり得ます。しかし修行者は、それに執着もしない。解釈もしない。そのまま確認して放っておきます。そして、智慧が現れることを期待します。脳の捏造機能を破るために精進するのです。智慧が現れると、先入観が一切なくなると、ありのままの事実が観えるのだ、というスタンスです。

ありのままの事実とは、無常・苦・無我・因縁法則です。言葉を変えると、四聖諦になります。しかし最初から仏教の概念を頭に入れておくと、それも先入観になります。無常を発見するのではなく、発見した気分になってしまう恐れもあります。無常は事実なので、その気分に陥りやすいのです。ですから智慧が現れる過程を七つの段階に分けて解説しているのです。見清浄とは、その智慧の三番目です。何かを経験してびっくりした、感動したではなく、具体的にものの見方が変わった、性格が変わったのです。ある程度は心が清らかになったのです。

 人格は勝手に改善されます。それは法則です。修行者はひたすら確認作業だけを続けます。神秘的な体験が起きても、それも確認して放っておきます。智慧が現れると、今まであった迷信・信仰・先入観・推測・主観などがじりじりと変わっていくことが修行者本人に分かります。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p97】

 
 
 

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