top of page
検索

智慧に執着しない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月18日
  • 読了時間: 2分

智慧に執着しない Atthi kāyo’ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati.そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それは他でもない、智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。 「身体がある(atthi kāyo)」と修行者が気づくのです。この場合、kāyo とは呼吸です。しかし「ある(atthi)」は、実体として存在する、という意味ではありません。際限なく生じて滅する呼吸というはたらきがある、という意味です。「生じて滅する流れ」なのです。何の実体もないのです。発見する智慧とは、ただ、これだけです。ありのままの現象で、明確に現れている現象なのです。瞑想経験がない人であっても、理解しがたいはたらきではないでしょう。しかし瞑想しない人々の心は、大量の固定概念、先入観などで覆われているのです。何事にも深い意味があるはずだと、妄想するのです。修行者が、「因縁に依って生じて滅する現象なのだ」と発見することで、先入観、固定概念などは破れてしまう。これがsati 気づきが現れたことなのです(sati paccupaṭṭhitā hoti)。大念処経の「念処」とは、気づきを確立することです。呼吸瞑想で気づきを確立したことになったのです。これにまた、智慧とも言えるのです。この智慧によって、この気づきによって、この世の何ものにも頼らないで、何ものも拠りどころとしないでいられるようになります(anissito ca viharati)。この世の何ものにも執着しないようになるのです(na ca kiñci loke upādiyati)。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p70】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page