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正理 (ñāya)で疑が消える

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月15日
  • 読了時間: 1分

 現代人もいまだに魂について議論しています。いまだに誰も、最終的な結論に達していません。これからも、地球上に人間がいる間は、議論が続くだろうと思います。ということは、議論では理に達しない、という証拠なのです。しかし、「地球が丸い」という意見には、異見がありません。最終的な答えに達する方法が、ここにあります。それは、調べることです。証拠を探すことです。データを見つけることです。それを行なったから、お釈迦様は真理を発見したのです。「生きる」ということについての答えを見つけたのです。いままで人類が散々議論してきて、無数の意見をつくって、どちらが正しいのか分からなくて、悩んでいたのです。どちらが正しいと分からない状態は、「疑」です。「この意見が有力」と言えても、正しいとは言えないのです。この場合も、疑は晴れていないのです。お釈迦様は真理を発見した瞬間、一切の議論から心が解放されたのです。それは、疑が消えた状態です。『Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経』の実践で、私たちにもこの、疑が消えることを経験できるのです。疑が消えたとは、正理 (ñāya) に達したことなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.37】

 
 
 

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