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正理(ñāya)で疑が消える

sapporobukkyoujuku
9月21日
読了時間: 2分

正理(ñāya)で疑が消える

 ブッダにより説かれた実践方法で「全ての疑が消える」と言われています。現代的な思考では、そんなことはあり得ないと思われるでしょう。現代人は一つの問題にいくつかの解説方法を見出し、たくさんの意見をつくります。それから、自分たちの意見を立証しようと必死で議論するのです。議論することで、間違った意見が破れて、正しい意見が残るだろうと推測するのです。しかし議論だけでつくられた正しい唯一の意見というものは、この世のなかに一つも存在しないのです。実験をしたり証拠を探したりして、最終的な考え・結論に至ったケースならばあります。これについて、私がいつでも出す簡単な例は、「地球が丸い」という結論です。これは聖書を信じる人々と、聖書を信じない人々が議論の末に達した結論ではないのです。聖書賛成派はいまだに負けを認めていません。聖書反対派も「聖書は間違っている」という断言的な意見には達していないのです。いまだに議論中なのです。この状況は、お釈迦様の時代も同じことでした。みな議論ばかり。魂はあるかないか、あるならばその魂はどのようなものか、と激しく議論をしていたのです。現代人もいまだに魂について議論しています。いまだに誰も、最終的な結論に達していません。これからも、地球上に人間がいる間は、議論が続くだろうと思います。ということは、議論では真理に達しない、という証拠なのです。

 
 
 

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