top of page
検索

死体を観る瞑想は仏教だけのもの

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年6月24日
  • 読了時間: 2分

死体を観る瞑想は仏教だけのもの 自分の身体の三十一の部分を全部観ることは不可能ですが、客観的に観ることができるものは観てほしい。観られる部分はいくらでもあります。自分の鼻水とか、自分の尿とか、大便とか、観察できます。それらは決してきれいなものではない。愛着が生まれるものではない。人間は幻覚の世界で生活しているから、とにかく演じるのです。料理も演じる世界でしょう。いかに美しく、いかにおいしく、いかに見映えが良くということを演じる世界ですから。演じる世界は全部嘘、インチキの世界なのです。そこはもう仏教ではカットする。演じる世界は知識の世界ですから、苦しみしか生まれてこない。 料理の面でものごとを見て、料理研究家になってしまったら、もう他のことは勉強できなくなってしまう。料理の研究だけで、一生かかってしまう。一生かかって分かるのは、「どのように鶏の肉を料理するか」というくらいのことです。どう見たって、人間が食べるものは決まっていて、肉の場合は鶏か豚か牛か。野菜の種類はたくさんありますが、まとめてみると葉を食べるか、土のなかの根を食べるか、それくらいのものでしょう。それで食材をありとあらゆる方法で料理して、素晴らしいと褒め称える。そういう幻覚の世界は必ず苦しみをつくる世界なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p96】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page