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死体を観る瞑想は仏教だけのもの

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月24日
  • 読了時間: 2分

死体を観る瞑想は仏教だけのもの 自分の身体の三十一の部分を全部観ることは不可能ですが、客観的に観ることができるものは観てほしい。観られる部分はいくらでもあります。自分の鼻水とか、自分の尿とか、大便とか、観察できます。それらは決してきれいなものではない。愛着が生まれるものではない。人間は幻覚の世界で生活しているから、とにかく演じるのです。料理も演じる世界でしょう。いかに美しく、いかにおいしく、いかに見映えが良くということを演じる世界ですから。演じる世界は全部嘘、インチキの世界なのです。そこはもう仏教ではカットする。演じる世界は知識の世界ですから、苦しみしか生まれてこない。 料理の面でものごとを見て、料理研究家になってしまったら、もう他のことは勉強できなくなってしまう。料理の研究だけで、一生かかってしまう。一生かかって分かるのは、「どのように鶏の肉を料理するか」というくらいのことです。どう見たって、人間が食べるものは決まっていて、肉の場合は鶏か豚か牛か。野菜の種類はたくさんありますが、まとめてみると葉を食べるか、土のなかの根を食べるか、それくらいのものでしょう。それで食材をありとあらゆる方法で料理して、素晴らしいと褒め称える。そういう幻覚の世界は必ず苦しみをつくる世界なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p96】

 
 
 

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