気づき:世間と仏道の違い
気づき:世間と仏道の違い
Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。なぜ気づきを明確に四つに制限したのかと説明します。気づきという言葉は、私たちが日常使っている単語の一つです。ですから気づきの意味は、「日常、私たちが考えている気づきではないか」と勘違いする恐れもあります。ほとんどの人々は、それなりの気づきがあって、生きているのです。その気づきについて、正覚者たるブッダがあえて「唯一の道だ」と説く必要はないのです。ですから、四つの気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思われたら、困るのです。皆に何かしらの気づきがあることは確かですが、誰一人として悩み苦しみを乗り越えていないのです。愁い悲しみをなくしていないのです。心の安穏を確保して、解脱に達していないのです。ということは、釈尊が提案する気づきと、私たちが日々やっている気づきは、同じものではないのです。註釈書はこのポイントを明確にします。気づき(sati)は日常世界の心では起きません。仏道を実践するときのみ、その心に気づきが起こるのだと註釈するのです。
アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p42
コメント