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水の元素の観察

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月6日
  • 読了時間: 2分

水の元素の観察 次は、水の元素です。普通の水を観てみましょう。重いのです。硬いのです。しかし、それは気にならないのです。重いから、硬いから、水というわけではないのです。何か別な特色があります。それを気にしているのです。それはなんですか? 水といえば、流れる性質があるのです。形は定まってないのです。この流れるという機能・エネルギーが、水の元素です。我々には自覚がないだけで、心がその特色を取って、個体と液体の区別をするのです。瞑想する人々は、自分の身体のなかにある水分、血液、鼻水、よだれ、尿、リンパ液、膿などを発見するたびに、気になるたびに、水(āpo)の元素と確認する。川を観て、雨を観て、水(āpo)の元素と確認する。 ご飯を食べるときも、味噌汁や水、茶などを水(āpo)の元素と確認する。ご飯やおかずなどにしても、硬いのみであるならば、決して食べられないのです。そのなかに水(āpo)の元素があることを確認する。他の身体の場合も、同じ確認作業をして、水(āpo)の元素を発見する。 小麦粉に水を入れて練ってみましょう。簡単に飛び散る粉が一箇所にまとまったのです。飛び散らなくなったのです。形は定まっていないのです。これで水の元素のもう一つの特色が観えてきます。地の元素を飛び散らないように繋げるはたらきです。我々の身体も、粉にならないのは、水の元素があるからです。机も粉にならないのは、水の元素があるからです。自分の身体のなかに、自由に流れる液体があると同時に、身体が飛び散らないように繋いでくれる粘着的なはたらきも、水(āpo)の元素として確認するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p105】

 
 
 

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