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涅槃という境地があります

  • sapporobukkyoujuku
  • 11月4日
  • 読了時間: 2分

涅槃という境地があります それでも最終解脱について「言葉で語れない」ということは、知識でものごとを理解しようとする人々にとっては曖昧な表現に映るのです。ブッダは曖昧な表現を徹底的に避けます。次のように、弟子たちに「比丘たちよ、涅槃という境地がある」と明確に説かれるところもあります。  比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地] がある。比丘たちよ、もしも、その生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地]がなければ、生まれるもの、存るもの、造られたもの、作為されたものにnissaraṇaṃ paññāyatī(出離の智慧)救済はなくなるのです。しかし比丘たちよ、生まれることがない(不生)、……という[境地]があるゆえに、生まれるもの、……に救済があるのです。(ウダーナ八章三経)  大変難しいフレーズですが、意訳してみれば簡単に理解できます。「涅槃という境地があります。涅槃という境地がなかったならば、輪廻転生して苦しんでいる生命に何の望みもありません。しかし涅槃という境地があるからこそ、苦を転生している生命に、救済の望みがあるのです」という意味です。 というわけで、人間が目指すべき唯一の目的は解脱になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p55】

 
 
 

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