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無智への道

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月1日
  • 読了時間: 1分

 修行として気づきの実践をする場合は、価値観を基準にしてはならないのです。心に怒りが生まれたら、怒りが起きた、と気づくのです。しかし、「怒りは嫌だ、怒るのは当然だ、心を清らかにしようとしたところで怒りが起きたので私はだめな人間だ」などなどの価値観は絶対禁止です。気づきを実践すると良い気持ちになりました、心が落ち着きました、楽しくなりました、などの価値観も禁止です。価値観とは、良い 悪い、高い・安い、善・悪、好き・嫌い、欲しい・いらない、敵・味方、苦・楽、などの虚妄分別なのです。二分化することです。虚妄分別は、無智への道です。智慧ではありません。価値観は智慧の敵なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.51】

 
 
 

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