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無智への道

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月1日
  • 読了時間: 1分

 修行として気づきの実践をする場合は、価値観を基準にしてはならないのです。心に怒りが生まれたら、怒りが起きた、と気づくのです。しかし、「怒りは嫌だ、怒るのは当然だ、心を清らかにしようとしたところで怒りが起きたので私はだめな人間だ」などなどの価値観は絶対禁止です。気づきを実践すると良い気持ちになりました、心が落ち着きました、楽しくなりました、などの価値観も禁止です。価値観とは、良い 悪い、高い・安い、善・悪、好き・嫌い、欲しい・いらない、敵・味方、苦・楽、などの虚妄分別なのです。二分化することです。虚妄分別は、無智への道です。智慧ではありません。価値観は智慧の敵なのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.51】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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