top of page
検索

現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月10日
  • 読了時間: 1分

現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄

 ここで修行者は、すべての現象をnāma とrūpaに分離して観ることになります。わざわざそうしなくてはいけない、という妄想を活かして無理にやっているのではなく、自然にnāma とrūpa に分離することになるのです。集中力が上がれば上がるほど、ラベリングをするべき現象の種類が少なくなっていきます。集中力が上がると同時に、現象の種類も増えていくなら、これ以上はできない、という能力の壁にぶつかります。ヴィパッサナーでは、このような問題は起きません。集中力があると、多数多種類だった現象が、nāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのです。集中力は壊れることなく、実践が着々と進みます。このあたりまで進むと、見清浄という智慧が現れています。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p106】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page