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現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月10日
  • 読了時間: 1分

現象がnāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのが見清浄

 ここで修行者は、すべての現象をnāma とrūpaに分離して観ることになります。わざわざそうしなくてはいけない、という妄想を活かして無理にやっているのではなく、自然にnāma とrūpa に分離することになるのです。集中力が上がれば上がるほど、ラベリングをするべき現象の種類が少なくなっていきます。集中力が上がると同時に、現象の種類も増えていくなら、これ以上はできない、という能力の壁にぶつかります。ヴィパッサナーでは、このような問題は起きません。集中力があると、多数多種類だった現象が、nāma とrūpa という二つのカテゴリーに収まっていくのです。集中力は壊れることなく、実践が着々と進みます。このあたりまで進むと、見清浄という智慧が現れています。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p106】

 
 
 

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