top of page
検索

現象が我々の心に見せる姿

  • sapporobukkyoujuku
  • 2026年1月1日
  • 読了時間: 2分

現象が我々の心に見せる姿 話が難しくなるので、例を出します。人が何かを指して「バナナ」と言います。瞬時に分かります。しかし味・香りなどを調べてはいません。熟しているか、青いままかも調べていません。ある品物を見た瞬間に、脳に何かの反応が起こります。その反応で「バナナ」だと結論づけるのです。Paccupaṭṭhāna とは、現象がこのように我々の心に見せる姿のことです。ですから日本語訳は「現状」なのです。一般的な日本語の「現状」という意味ではありません。 修行者はnāma とrūpa を区別して発見しなくてはいけません。各nāma とrūpa が自分を現す姿を持っています。修行者はそれで区別認識します。例えばnāma の一部であるlobha を観察してみましょう。Lobha とはものごとに執着させる欲のことですが、それはなかなか分かりません。しかしヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、簡単に「これはlobha です」と確認することができます。「執着を引き起こすはたらきを持っているからlobha です」と思う前に、瞬時にlobha を確認しているのです。その確認をさせたのは、paccupaṭṭhāna です。八十一のdhamma が八十一種類のpaccupaṭṭhāna を持っているのです。 説明すると難しくなりますが、実際に修行してみるとそれほど難しくはありません。それぞれのdhamma が自分を世に見せる姿を持っている、という話です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p88】

 
 
 

最新記事

すべて表示
疑とは何?

疑とは何?  ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。  ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。  誰で

 
 
 
智慧が現れる過程を七つに分ける

智慧が現れる過程を七つに分ける 当然、ヴィパッサナー実践も日常でおこなうものではないので、修行中、変わった経験が起こり得ます。しかし修行者は、それに執着もしない。解釈もしない。そのまま確認して放っておきます。そして、智慧が現れることを期待します。脳の捏造機能を破るために精進するのです。智慧が現れると、先入観が一切なくなると、ありのままの事実が観えるのだ、というスタンスです。 ありのままの事実とは、

 
 
 
神秘体験を得ることは目的でない

神秘体験を得ることは目的でない 例えば瞑想中、普通とまったく違った光を体験したとします。脳に起きた現象なので、否定する必要はありません。しかし「したがって、人の魂はまぶしく輝く光である」という哲学は駄目です。そのように言うための証拠はありません。長部経典の第一『Brahmajālasuttanta 梵網経』では、このポイントが明確に語られています。瞑想中、何を経験するか、分かったものではないのです

 
 
 

コメント


bottom of page