top of page
検索

理性的疑rational doubt

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月25日
  • 読了時間: 1分

理性的疑rational doubt

 世間の話、伝統、神話、普通に知識というもの、などなどを無批判的に認めたくない人々もいます。認めるためには、証拠を要求する。また、自分で調べたり、確かめたりする。これも疑なのです。しかしこのタイプの人々は、事実を探すのです。ただ、世間に騙されたくないだけです。これは理性的疑rational doubt です。または科学的な疑とも言います。このタイプの人々は、さまざまな事実を発見して世に貢献します。無知から出る疑ではなく、事実を知りたいという気持ちから現れる疑です。疑というよりは、探究心です。科学者・研究者・知識人が持つべき疑なのです。このタイプの疑は、お釈迦様も大いに賛成します。お釈迦様自身も、自分で調べて確かめない限りは、人の話に無批判的に乗ることはなさいませんでした。この性格があったからこそ、真理を発見して悟りに達することができたのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】

 
 
 

最新記事

すべて表示
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる

自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる  それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」も

 
 
 
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する

涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する  テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観

 
 
 
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する

強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する  果心が起きてから、心は有分心になります。それから普通の認識過程に戻ります。普通の認識過程といっても、五根から情報を得て混乱している心のレベルではありません。強烈な集中力で、観察能力がついている心です。その能力を活かして、観察します。ほんの瞬間前に何が起きたのか、観察するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サ

 
 
 

コメント


bottom of page