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理性的疑rational doubt

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月25日
  • 読了時間: 1分

理性的疑rational doubt

 世間の話、伝統、神話、普通に知識というもの、などなどを無批判的に認めたくない人々もいます。認めるためには、証拠を要求する。また、自分で調べたり、確かめたりする。これも疑なのです。しかしこのタイプの人々は、事実を探すのです。ただ、世間に騙されたくないだけです。これは理性的疑rational doubt です。または科学的な疑とも言います。このタイプの人々は、さまざまな事実を発見して世に貢献します。無知から出る疑ではなく、事実を知りたいという気持ちから現れる疑です。疑というよりは、探究心です。科学者・研究者・知識人が持つべき疑なのです。このタイプの疑は、お釈迦様も大いに賛成します。お釈迦様自身も、自分で調べて確かめない限りは、人の話に無批判的に乗ることはなさいませんでした。この性格があったからこそ、真理を発見して悟りに達することができたのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】

 
 
 

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