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生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」

  • sapporobukkyoujuku
  • 10月27日
  • 読了時間: 1分

生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」 修行するときは、「解脱」という言葉で頭を悩ませることはしません。「妄想してはいけない」と叱られる結果になります。生きるとは何かと観察させているのです。この観察が完了して、智慧が現れているのです。生きることは無価値です。生きることに未練はなくなりました。俗世間は完全に処分するべきゴミのように、山火事に包囲されたように、感じているのです。このように、生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」こそが、本物です。この時点までくると、解脱したいという「気持ち」ではありません。解脱するより他の方法はない、という発見であり、智慧なのです。 心理学的に説明すると、次のようになります。心は今まで俗世間の方を見て観察していました。ここへきて俗世間の観察は完了して、未練も消えたのです。そこで心の向きが一八〇度変わります。世間向けの心が、出世間向けになるのです。何の躊躇もなく、一切を捨てられる心境になっているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p51】

 
 
 

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