top of page
検索

生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年10月27日
  • 読了時間: 1分

生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」 修行するときは、「解脱」という言葉で頭を悩ませることはしません。「妄想してはいけない」と叱られる結果になります。生きるとは何かと観察させているのです。この観察が完了して、智慧が現れているのです。生きることは無価値です。生きることに未練はなくなりました。俗世間は完全に処分するべきゴミのように、山火事に包囲されたように、感じているのです。このように、生きることを知り尽くした上で現れる「脱出意欲」こそが、本物です。この時点までくると、解脱したいという「気持ち」ではありません。解脱するより他の方法はない、という発見であり、智慧なのです。 心理学的に説明すると、次のようになります。心は今まで俗世間の方を見て観察していました。ここへきて俗世間の観察は完了して、未練も消えたのです。そこで心の向きが一八〇度変わります。世間向けの心が、出世間向けになるのです。何の躊躇もなく、一切を捨てられる心境になっているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p51】

 
 
 

最新記事

すべて表示
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる

自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる  それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」も

 
 
 
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する

涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する  テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観

 
 
 
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する

強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する  果心が起きてから、心は有分心になります。それから普通の認識過程に戻ります。普通の認識過程といっても、五根から情報を得て混乱している心のレベルではありません。強烈な集中力で、観察能力がついている心です。その能力を活かして、観察します。ほんの瞬間前に何が起きたのか、観察するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サ

 
 
 

コメント


bottom of page