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生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年11月22日
  • 読了時間: 1分

生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為 人が生きるとは、自然破壊をすることです。いくらがんばっても自然破壊を避けられません。また、生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為です。これも避けられません。生きていきたいと思うならば、それは自然と他の生命に対する破壊行為・迷惑行為になります。しかし出家は、この矛盾から脱出することができます。托鉢に出て、人がすでに調理した残り物の食べ物をいただいたならば、その出家が食べる分で自然破壊したことにはなりません。樹の下や空き家で夜を過ごすならば、住居を造るために自然破壊する必要はありません。人が捨てた服を拾って縫い合わせて衣を作れば、自然破壊したことになりません。病気になったら、仔牛たちの尿を取って飲めば、薬を調合するために自然破壊したことになりません。この生き方は、出家の基本です。「かならずこのとおりに生きなさい」という強制ではありません。それでは仏道の中道が壊れて、極端な道であると説かれた苦行の道になります。あくまでも基本です。出家はこの基本を憶えておくのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p68】

 
 
 

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