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疑とは何?

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月24日
  • 読了時間: 1分

疑とは何?

 ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。

 ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。

 誰でも疑う、誰のことも信頼しない、という精神病に属する疑もあります。性格的に、人の話に乗らない人々がいます。その人々は、人の話を聞こうとも理解しようともしません。「大したことではないでしょう」という先入観を持って生きています。これも疑です。無知から発生するのです。

 曖昧・中途半端に生きる。自分ではどうすればよいのか分からない。だからといって、人の話に乗って行動する勇気はありません。これも性格的な疑です。無知が原因です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】

 
 
 

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