top of page
検索

疑とは何?

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月24日
  • 読了時間: 1分

疑とは何?

 ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。

 ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。

 誰でも疑う、誰のことも信頼しない、という精神病に属する疑もあります。性格的に、人の話に乗らない人々がいます。その人々は、人の話を聞こうとも理解しようともしません。「大したことではないでしょう」という先入観を持って生きています。これも疑です。無知から発生するのです。

 曖昧・中途半端に生きる。自分ではどうすればよいのか分からない。だからといって、人の話に乗って行動する勇気はありません。これも性格的な疑です。無知が原因です。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p98】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page