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疑は煩悩だから皆にある

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月29日
  • 読了時間: 2分

疑は煩悩だから皆にある

 疑という煩悩は、欲・怒り・憎しみ・落ち込み・後悔などの煩悩のように悪く見えたりはしません。ほとんどの人々は、自分に疑があると認めたくもありません。仏道においては何の疑もないのだと自賛したいのです。しかし、煩悩だから皆にあります。疑の煩悩は人々の理解能力を揺るがします。

 ブッダの教えをまじめに信じている人がいるとしましょう。その人に、世界は唯一の神が創造したのだ、という話をしても、笑って否定するでしょう。しかし、このようなエピソードを妄想してみましょう。どこかで神が現れた、というニュースが流れます。人々は神が現れたときのビデオも撮っています。CNN やBBC など世界最大級のマスコミも大々的にそのニュースを報道します。科学者や知識人も興味を抱いて、議論します(これは決してあり得ないエピソードを妄想しただけです)。では、そのときあの仏教徒の仏教に対する自信満々な精神は、どうなることでしょうか? 揺らぐのです。世間に向けて「これは嘘だ。でっちあげられた話だ、創造主が存在するはずはありません」などとは言えなくなります。困ってしまいます。自分には太刀打ちできないと分かったところで中間的(曖昧)な態度をとって、「言葉や表現は変わっても、すべての宗教は同じ真理を教えているのだ」と言うかもしれません。

 以上、私がつくった妄想的なエピソードですが、実際にこの現象は仏教徒の中でありありと見えます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p100】

 
 
 

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