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疑は証拠が充分そろったところでなくなる

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月31日
  • 読了時間: 1分

疑は証拠が充分そろったところでなくなる

 どんな人であっても、真理とは何かとは分かっていません。発見していないのです。真理についていろいろな人がいろいろな説を出します。できる範囲でそれらを勉強してみます。しかし、「これこそ真理だ」と最終的に決定することはできません。いくら勉強しても、疑がうろついているはずです。私がいつも出す例があります。「地球が丸い。この事実について、疑はありません。異論は成り立ちません」。疑とは、証拠が充分そろったところでなくなるものです。この説明で、疑という煩悩が常に私たちの心のバックグラウンドではたらいているのだと理解していただければ幸いです。ヴィパッサナー実践で四番目の清浄に達したら、疑が晴れるのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】

 
 
 

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