top of page
検索

疑は証拠が充分そろったところでなくなる

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月31日
  • 読了時間: 1分

疑は証拠が充分そろったところでなくなる

 どんな人であっても、真理とは何かとは分かっていません。発見していないのです。真理についていろいろな人がいろいろな説を出します。できる範囲でそれらを勉強してみます。しかし、「これこそ真理だ」と最終的に決定することはできません。いくら勉強しても、疑がうろついているはずです。私がいつも出す例があります。「地球が丸い。この事実について、疑はありません。異論は成り立ちません」。疑とは、証拠が充分そろったところでなくなるものです。この説明で、疑という煩悩が常に私たちの心のバックグラウンドではたらいているのだと理解していただければ幸いです。ヴィパッサナー実践で四番目の清浄に達したら、疑が晴れるのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page