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疑は預流果の悟りに達するとき根絶される

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月27日
  • 読了時間: 1分

疑は預流果の悟りに達するとき根絶される

預流果の悟りに達するとき、疑という煩悩が根絶されるのです。分かりやすいので、疑の説明をまず註釈書に沿って書きます。三宝に対する疑、四聖諦に対する疑、因果法則に対する疑、無常・苦・無我に対する疑、仏道に対する疑、輪廻に対する疑、業の法則に対する疑です。表面的に見ると「仏教を疑っては駄目ですよ」というようなPR 文句にも似ています。

 少々詳しく解説します。疑とは煩悩です。悟りに達していない限り、一切の生命にあります。三宝を疑っている、などの解説では、充分な説明になりません。なぜならば、仏教徒は三宝を疑いません。輪廻も業も真理として認めます。それなら教えを学んだ仏教徒には、疑がないことになります。しかし疑という煩悩は、預流果の悟りによってなくなるものです。ですから、仏教知識においては一流の人であっても、疑の煩悩があります。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p99】

 
 
 

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